都知事選の投票日が迫っておりますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。弁護士の菊川です。
選挙運動とは直接関係ないように見えて、実は極めて密接な関係にあるのが、表現の自由です。義務教育を経ていれば聞いたことはある人が大半ではないでしょうか。
表現の自由は、憲法21条で保障されている自由で、近代立憲国家においてなくてはならない自由です。
近代立憲国家は、絶対的な権力を持つ君主による絶対主義に対する反動から発展しました。君主制か民主制かはともかく、国が、国に対して弱い立場にある国民に対して権利を保障し、国の恣意によってみだりにその自由・権利を害されることがあってはならないとの発想が根底にあります。
そこで、色々な自由や権利が考えられますが、その中で最も大切と言って差し支えないものが、表現の自由です。
これが認められない場合を考えれば一目瞭然です。極端な例ですが、表現の自由がなければ、政府を批判したら死刑にするという法律を作ることが出来てしまうわけです。そうすると政党批判はできなくなり、その政党に対して賛成することしか出来なくなります。驚きの支持率100%ですよ。中国かな?
これは、その政党がどのように不合理・理不尽な政策をとってもです。逆らえば殺されてしまいますから。
つまり独裁政治を許してしまうことになる訳です。
独裁政治はそれはそれでメリットはありますが、長く続いた場合はデメリットが大きくなってきますから、やはり適切な政治体制とは言い難いものです。絶対主義時代のフランスや現中国・北鮮を思い浮かべてみてください(特にその国民)。
そこで、国民が政治体制に不満を持った時には、その政治体制を変えることが出来る仕組みが担保されていることが重要になります。そのために、表現の自由は絶対欠くことのできない自由とされるのです。
表現の自由には、ここで主として述べた(政治的)言論の自由の他、思想の自由、集会の自由その他一切の表現の自由が含まれます。
ただしこれは無制限であることは意味しません。1例えば、理由無く他人を誹謗・中傷することは許されませんし、公衆の面前で性器を露出するような表現行為が許されるべきではありません。
このように、表現行為と言っても、その内実は様々で、他人の権利や社会の善良な風俗との兼ね合いで、制限することがやむを得ない場合は当然ありえます。今回は無事だったようですが,前回の都知事選での後藤輝樹氏の政見放送とかですね。公職選挙法150条あたりの規定に基づいて一部規制されてましたね。
このような場合には、別途制定した法律に基づき、例外的に制約することが許される訳ですが、念頭に置いておかないといけないのは、表現の自由は原則として制約されるべきではない(制約されてはいけない)ということです。時の権力者により、その権力者が嫌いな表現行為や、その権力者と仲のいい人達と敵対する立場の人の表現行為が制約されるなど、その恣意に任されることは絶対に認められませんし、あってはならないことなのです。
あらゆる表現行為は、それが100%支持されるということはおよそありえず、それを嫌う人もいます。多数派が支持する表現だから許されるべきで、多数派が嫌悪する表現だから規制されなくてはならない、という発想は愚鈍・短絡的なものと言わざるを得ません。
表現規制の問題は世界各国であり、日本でも色々な表現行為が規制されていますが、諸外国と比べたらゆるい部分もあります。これを遅れていると評する人々もいますが、憲法的に見た時には、むしろそれこそが王道であると見ることもできます。
嫌いな表現行為があっても、直ちに規制しろ!と叫ぶのではなく、少数派の意見や、自分の表現行為が同じく規制されそうになったときのことを今一度考えてみるべきかもしれませんね。